【2018年9月28日 今日の富士山】

おはようございます。今日は朝から良い天気ですね♪
朝方は少し肌寒かったですが、くっきりとした富士山を見ることができとても綺麗でした^^
明日から明後日にかけて非常に強い勢力の台風24号が日本列島を縦断するので、今日は台風前の貴重な日差しとなりそうです。
本州付近ではスピードを上げて進むため、台風の風の移動速度も加わって、さらに風が強まったり、台風の接近に伴って急に風や雨が強まる恐れがあるようです。
台風接近前から秋雨前線によって大雨となるおそれがあるため、全国的に警戒が必要な状態です。
週末はお出かけをひかえて万全の対策をするようにしてください。
それでは金曜日の今日も、1日頑張りましょう!!
さて今日は“サツマイモの歴史”についてです。
様々な作物が収穫され、食欲の秋も盛り上がっている今日この頃ですが、コンビニやスーパーを見ると、ブドウや栗と並んでサツマイモのスイーツが目立ちます。
食が多様化しても、あの素朴な甘味は日本の秋の風物詩と言えますね。
そもそも、サツマイモは南米原産の作物だったのを、大航海時代に欧州人が東南アジア諸国や中国に広めたのが始まりです。
日本人とサツマイモの出会いは慶長2年(1597年)に宮古島の役人が中国から伝えたのが始まりで、沖縄や中国の舶来品と言うことで琉球芋・唐芋(からいも)と呼ばれていました。
しかし、当時のサツマイモは救荒作物すなわち干ばつなど不作、飢饉に備えて植えられる作物として扱われました。
余り扱いが良いとは言えませんが、日照りに強く水が少なくても育つのだから、サツマイモはタフな作物です。
その利便性に気付いたのが薩摩、今の鹿児島県の人々でした。鹿児島は火山性の土、つまりシラス台地なので稲作には不向きでしたが、水はけが良い土地でも育つし南国の作物でもあるサツマイモはピッタリだったのです。
薩摩の国で作られる芋と言うことで、この異国渡りの芋は“サツマイモ”になっていきました。
江戸時代は平和で戦争こそありませんでしたが、社会不安の要因として飢饉が存在しており、それは諸藩と幕府を悩ませていました。享保17年(1732年)に起きた享保の大飢饉では、西日本で多くの餓死者が出ましたが、瀬戸内海の大三島全くは餓死者が出ませんでした。
大三島が飢餓から救われたのは、他でもなくサツマイモを栽培していたためであり、一躍サツマイモの名は広まります。
その4年後の天文元年(1736年)、1人の学者が“暴れん坊将軍”で有名な8代将軍徳川吉宗より、薩摩芋御用掛と言う役職を拝命しました。
その学者こそが『甘藷(かんしょ。サツマイモの別名)先生』として親しまれる、青木昆陽です。
昆陽は『蕃薯考(ばんしょこう)』と言うサツマイモに関する著書を記し、江戸の小石川植物園、九十九里浜の不動堂村などで芋の試験栽培に成功しており、飢饉対策に悩む吉宗に抜擢されたのでした。
こうして、関東にもサツマイモ栽培が本格的に根付く基礎が出来たのです。
こうして将軍から武家、そして町の学者に至るまでが飢饉を乗り切るために導入したサツマイモは、徐々に江戸庶民に愛好されるようになり、空前のサツマイモ食文化を築いていったのです。
救荒作物(凶作などに備えて作られる農作物)として沖縄経由で海外から渡来したサツマイモは、甘藷先生・青木昆陽や名の由来となった薩摩国の人々など多くの人の試行錯誤で諸藩に広まりました。
凶作に強いだけでなく収穫が多く、救荒作物ゆえに高価では無いが、味は決して悪くないと来れば調理法を考えるのが人情と言うもので、江戸時代には様々なサツマイモ料理が生まれました。
干し芋や蒸かし芋などシンプルなものだけでなく、芋と長ネギを酒と塩で煮込んだ『なんば煮』、そば粉の代わりにサツマイモと山芋の粉を使った『六兵衛』と言う麺料理、そして当時の人気料理だった天ぷらの技術を応用した揚げ物と様々です。
こうした現代の料理顔負けのレパートリーは『甘藷百珍』『年中番菜録』と言ったレシピ集に掲載され、料理人や家庭の主婦に愛読されましたが、何れの本でもサツマイモが人気の食材として取り上げられているのも、人気の高さを伺わせますね。
よく時代劇や歴史ものの書籍で『八里半』『十三里』と書かれたお店が出てきますが、実は同じサツマイモ、特に焼き芋を扱ったお店を指します。前者は『栗=九里』に匹敵する味と言う意味で付いた名前ですが、後者は少し複雑なネーミングです。
『十三里』は、『八里半』の語源になった“九里(くり)”に“四里(より)”を足したもの、つまり『栗より美味い』と言う表現でもあるのと同時に、江戸から十三里離れた川越のことも意味しています。
川越は今もサツマイモの名産地ですが、江戸時代でも品質の高さは人気であり、洒落っ気のある江戸庶民からこのように称えられていました。
その焼き芋屋は『安い、旨い、お手軽』で江戸っ子の需要を満たした、食べ物屋さんの三冠王と言ってもおかしくないほどに重宝されます。
各町に設けられた木戸で治安の維持や火の番を受け持つ番屋と呼ばれる施設の管理人は、副業として雑貨などと共に焼き芋を売っていました。冬場は、きっと町内の人で賑わったことでしょう。
当時の江戸を書き記した『江戸繁盛記』(寺門静軒)によると、焼き芋は煨薯(わいしょ)と呼ばれ、朝の卯の刻から夜の亥の刻(午前六時から午後十時)までサツマイモを焼くお店があったとあります。
まるで今のファストフード店かコンビニのようですね。
安価で味も栄養価もバツグンな焼き芋は、十文(200~250円)分も買えば書生が空腹を癒す朝食になり得るもので、四文(100円ほど)ならば幼児を泣き止ませるなど、知識人から庶民に至るまで広く愛されました。
一方で商家や武士など社会的地位の高い人達の中にも焼き芋ファンはいたらしく、『江戸繁盛記』には、
「お嬢様は女の召使いに“おさつを買ってきて”と小声で頼む」
「ご主人が男の奉公人を行かせる時は、“小さくて数が多いのよりは、数が少なくても大きいのが良い”と言付ける」
と言った意味の事が記されています。きっと、『旨いと評判だが、場末の店にワシらが並ぶのは、ちと気恥ずかしいものじゃ』とでも思ったのでしょう。
そうしたエリート層からも好まれていたのですから、その人気たるや現代の比では無かったかもしれませんね。
一方、現代では年配の方から「貧乏時代を思い出すから嫌だ」、若い人達は「お腹が張っておならの元になるのはみっともない」と敬遠されがちなサツマイモは、美容と健康に効果的であり、それらの短所を補って余りある利点がたくさんあります。
救荒作物だったサツマイモを食文化にまで昇華させた先人にあやかり、その良さを再評価して味わってみるのも悪くないかもしれません。

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