【2021年2月12日 今日の富士山】

おはようございます。今日は朝からどんより曇り空。
見えないかと思いきや、富士山見えました!
青い山肌が目立ってきましたね。
空が曇っているからか、版画のような富士山に見えます。
今日は3月並みに気温が上がる予報ですが、今のところ日差しが出ていないので、本当に暖かくなるのか疑わしく感じてしまいます。
明日からの週末は4月並みの気温で、春の訪れを感じる暖かさとなるみたいですね♪
花粉がよく飛びそうなので対策をしっかりと行ってください。
バレンタインデーは今年一番の暖かさとなるところも多そうです^^
そんな週末を控えた金曜日!ラストスパートで頑張りましょう!
それでは今日は“喪服の色”について書いていきます。
最近の日本では「黒い服ばかり着ていると、運気や健康運がダウンする」とまことしやかに言われます。
風水やスピリチュアルでも同様に言われており、肌に着けるものに黒を選ぶのは、下着でさえも絶対ダメ!という意見や、黒は体にエネルギーを全く与えないので、血の巡りが悪くなり、美容面でもいいことなしとも言われています。
これらの説の根拠の1つに「黒は葬儀で着る喪服の色だから」というものがあります。
しかし、日本で一般的に黒い喪服が着られるようになったのは明治時代からと、比較的最近のことだったのをご存知でしょうか?
それ以前の喪服にはなんと、現代では「花嫁の色」「清純・無垢を表す神聖な色」とされ、花嫁衣裳の定番となっている白が使われていたのです。
昔の日本人が白い喪服を着ていたことは「日本書紀」や、日本の様子を記録した中国の歴史書「隋書倭国伝」などに見られます。
喪服が白だった最大の理由は、遺族が「死者の白装束と同じ色」の着物を着ることで、「死」の悲しみを身内のなかだけにとどめるという意味合いがあったからです。
奈良時代の中期になると橡染め(つるばみぞめ)に代表される黒染めの技術が発達したこともあり、天皇や貴族は薄墨色の喪服を着るようになりましたが、白い布を染める余裕のなかった庶民は相変わらず白い喪服を着用し続けていました。
そのため庶民の間では長らく喪服の色は白が主流でしたし、貴族の力が弱まり武家政権となるにつれ、上流階級の間でも再び白の喪服が着用されるようになっていきました。
明治時代になると、日本に欧米の文化が入ってきます。
喪服の色も、政府の要人などの葬儀では諸外国からの来賓に合わせ、欧米の基準だった黒が使われるようになっていきました。
たとえば、初代内務卿となった大久保利通の葬儀では、政府が諸外国の国賓に合わせるため参列者に黒い喪服を作らせました。
また孝明天皇の女御で明治天皇の嫡母だった英照皇太后の大喪でも、英国王室式の黒も服を着用した欧米からの参列者に合わせて日本の参列者も黒を着用しただけでなく、庶民も喪章をつけて喪に服しました。
庶民の間にまで「喪服=黒」が浸透したのは、日中戦争、太平洋戦争と戦争が続くようになった時代でした。
戦時中は毎日のように戦死者の葬儀が行われていたため、白の喪服では汚れやすく手入れが大変だったことは想像に難しくないでしょう。
当時の喪服は多くが貸衣装だったため、貸衣装屋も汚れの目立たない黒の喪服を揃えるようになりました。
そして終戦を迎えると、日本は連合国の占領下に置かれたため、欧米の常識だった「黒い喪服」が一気に広まっていきます。
明治時代までは喪服というのは遺族が着るもので、その他の弔問者は正装で参列していましたが、1960年代以降葬儀産業が発展するのに合わせ、ようやく「ブラックフォーマル」と呼ばれる葬儀専用の黒い服が広まったのです。
ほかの色に染まらない黒が誠実の証として、当時導入され始めていた学生服にも黒を推進したという話もあるようです。
黒い喪服が定着している今日でも、一部の地域では、白の着物に白の帯という、白装束で葬儀に参加する地域もあり、儒教の影響を強く受ける中国や朝鮮では、今も白い喪服を着用しているそうです。

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